【舞台】『 民衆の敵 』感想~スカッと〇〇じゃない内部告発もの。衆愚政治とか、考えたくなる色々。

【舞台】『 民衆の敵 』感想~スカッと〇〇じゃない内部告発もの。衆愚政治とか、考えたくなる色々。
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民衆の敵

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民衆の敵 作品概要

2018年(原作:1882年)
作:ヘンリック・イプセン
演出:ジョナサン・マンビィ
キャスト:
堤真一
安蘭けい
谷原章介
段田安則

あらすじ

温泉の発見に盛り上がるノルウェー南部の海岸町。
その発見の功労者となった医師トマス・ストックマン(堤真一)は、その水質が工場の廃液によって汚染されている事実を突き止める。汚染の原因である廃液は妻カトリーネ(安蘭けい)の養父モルテン・ヒール(外山誠二)が経営する製革工場からくるものだった。トマスは、廃液が温泉に混ざらないように水道管ルートを引き直すよう、実兄かつ市長であるペテル・ストックマン(段田安則)に提案するが、ペテルは工事にかかる莫大な費用を理由に、汚染を隠ぺいするようトマスに持ち掛ける。一刻も早く世間に事実を知らせるべく邁進していた、新聞の編集者ホヴスタ(谷原章介)と若き記者ビリング(赤楚衛二)、市長を快く思っておらず家主組合を率いる印刷屋アスラクセン(大鷹明良)は、当初トマスを支持していたが、補修費用が市民の税金から賄われると知り、手のひらを返す。兄弟の意見は完全に決裂し、徐々にトマスの孤立は深まっていく。カトリーネは夫を支えつつも周囲との関係を取り持とうと努め、長女ペトラ(大西礼芳)は父の意志を擁護する。そしてトマス家に出入りするホルステル船長(木場勝己)もトマスを親身に援助するのだが……。
トマスは市民に真実を伝えるべく民衆集会を開く。しかし、そこで彼は「民衆の敵」であると烙印を押される……。
Bunkamura30周年記念 シアターコクーン・オンレパートリー2018 DISCOVER WORLD THEATRE vol.4 民衆の敵

感想

観てから随分経ってしまったが、せっかくなので感想を残す。
舞台作品なのでネタバレ全開でいく。

篠原涼子のやつじゃないです

本作を観劇したことを人に話すと、必ずといっていいほど「篠原涼子のやつ?」と返される。
過去に、同じタイトルのテレビドラマがあったらしい。
私自身そのドラマを観ていないのだが、物語の前提からして全然違うようだ。
同じ作品を原案ぐらいにはしているのかもしれないが、本作と件のドラマは別物と考えて良さそうである。

スカッと○○パターンにはハマらない

前半の進み方は典型的な内部告発ものだが、池井戸潤作品あたりのスカッと○○的な物に慣れていると、面食らうことになる(なった)

主人公の告発は温泉のおかげで潤っている町を潰すものだとして、主人公は外ならぬ民衆によって「民衆の敵」の烙印を押されてしまう。
これに対し「お前ら愚かな民衆どもは云々!!」と怒鳴りつける主人公。
主人公の対応は、側から見れば正しさで勝負するというよりもただの気が触れた逆ギレでしかないため、ますます状況は悪化していく。

それは衆愚政治と呼ばれるものか

賢い人間は、賢くない人間よりも少数である。
であるならば、社会における多数派は賢い人間ではないのだから、多数決で物事を決めるやり方は社会を誤った方向へ導くことになる。

筋が通っているようにも見えるし、「某国は一部の賢い人が全部回してるはずなのにあの体たらくなの」とか、じゃあ賢さって何だよみたいな話にもなるし、難しい問題だ。
こういう話を表す言葉として「衆愚政治」というのがある。
これについて深く論じるだけの知識を私は持たないが、どう考えても財源不足なのに増税を打ち出した途端支持率が下がるとか、代替案も無いまま原子力だけはイヤと駄々をこねるとか、現代においても通じる話は山ほど転がっている。
この作品で描かれるのは衆愚政治の構図であり、向かう先は主人公の持つ「正しさ」に対する、民衆の持つ「愚かさ」の一時的な勝利である。
(もちろん問題は何も解決していない)

大勢が敵に回るなかで、それでも芯を貫いて責め苦を受けるのはキリストに近い部分もあるのかもしれないが、彼は自らの敵を悪く言わずに許したのだったか。
徹底抗戦の構えを見せるトマス医師は、キリストとは根本的に違うと言って良さそうだ。

そういえば「機動戦士Zガンダム」で、パプテマス・シロッコという人が「常に世の中を動かしてきたのは、一握りの天才だ!」と怒鳴っていたことがあったね。
(だから何だ、に応える展開を思いつかない)

この作品は何を教えてくれたのか

どう見ても負け試合で終了。
飛んでくる石を受けながら、それでも目をキラキラさせた堤真一さん演じる主人公および家族の面々が幕の向こうへ消えるなか、「一体これは私たちに何を見せてくれた作品なのだろう」と考えた。

「強い人間というのは、何があっても1人で立っている人間だ」

終幕直前の主人公の言葉である。
今風に言えば、ブレない人という表現になろうか。
この言葉の直後に、1人立ち2人立っては拍手をし、それが徐々に全体に広まって大多数のスタンディングオベーションとなる観客席を見ていると、何だか面白かった。

そうは言っても、立ち回りは大事

みんなが赤信号を渡ってもその場に留まるとか、職場の人間が悪口を言っているところに賛同しないとか、個人の取り組みとしてやる分には、正しさを貫くことも易しめではある。
しかし多勢を覆したり仕組みを変えたりするとなると、正しさだけではなく主張の仕方や立ち回りというのも重要だ。
本作の主人公はここが欠けていたために、多数を愚弄する発言をして「民衆の敵」との烙印を押されてしまった。

現代の話で詳しく書くとどうやってもカドが立ちまくってしまうので難しいのだが、言ってることは正しいのに立ち回りが悪いために反感を買ってしまう例は、現代にもみられる。
マイノリティAとかBとかCとか……
もうちょっと上手くやればいいのに、と思っていたら、普段はマジョリティに存在さえ認識させずに自らのアイデンティティと立場を守り続けているマイノリティDの存在に最近気づいた。
さすが、歴史が長いだけあって動き方を心得ていらっしゃる。

一部のマイノリティ諸氏におかれましては、敵とみるやいなや未熟だの時代遅れだのと人間否定を仕掛けるといったアクションを控えつつ、うまく理論立てて味方を増やしながら戦ってほしいと切に願う。
(本作の中にも「とにかく穏便に!」と繰り返して腰抜けだと言われていた人物が居た。結局は彼が正しい側面も大いにあるということだ)

教育の重要性

終盤、主人公は突然「教室を開こう」と言い出す。
あまりに唐突過ぎて、単なる思い付きにしか見えないのだが、よくよく考えると話の筋にあった結論だ。
賢くない人が多数を占める事実はどうやったって変わらないが、全体の賢さを底上げすることは出来る。
相対的に見ればエリートには劣るかもしれないが、何が正しくて、そのためにどうすべきかを考えられる程度に、民衆の賢さを上げていこうというのだろう。

現代日本でも、公立小学校・中学校までは知的レベルの異なる層がごった煮状態となっているが、高校以降の段階で複数の階層に振り分けられていく。
賢さ = 偏差値かという話をし出すとアレだが、少なくとも一定の層以下の学生に対しては、賢さを身につけること自体が諦められているフシがある。
これでは全体の賢さなんて上がるはずもないので、賢さが何かというのは別に論じるとしても、とりあえず6年 or 3年過ごせば水準が低くても卒業して社会に出られてしまうという仕組みは、考え直す必要があるのかもしれない。

その他のこと

問題の主要な関係者・責任の所在を、主人公の親族内にまとめてしまっているのも面白い。
単に大企業や公的権力との闘いというだけでなく、義理の家族も含めた複雑なパワーバランスの中で主人公がどう振る舞うかというポイントは、物語をより面白くさせていると感じた。
あと谷原章介さん、声良すぎた。カコイイ。

私程度の人間がこんなに色々と書いてしまえるので「みんなで考えよう。正しさのこと。政治のこと。」という材料としては百点満点の作品だったかと思う。
大学生からの現代社会みたいなイメージで、舞台が見られずとも原作に触れてみても良い作品だ。

以上。
ほな、また。

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