【舞台】『 TERROR テロ 』感想~観客参加型法廷劇が受け手の当事者性を刺激する

舞台
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TERROR テロ

TERROR

「参審員」の役柄を与えられた観客に要求されるもの

マイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう』という本が日本で流行したことがある。この本で紹介された「正義」にまつわる議論の一例として、トロッコ問題というのが広く知られることとなった。

トロッコが走る線路上に人が5人居て、このままではトロッコが人を轢いてしまう。この時、線路の切替器の操作レバーをあなたが持っている。レバーを引けばトロッコの行き先が変わって5人が助かるが、切り替えた先の線路に立っている別の1人がトロッコに轢かれて死ぬことになる。「1人を殺せば5人が助かる。あなたはその1人を殺すべきか?」という形で、命を人数で測ることや、それを根拠に人の生死に介入することについて論じようというわけだ。
(トロッコ問題自体はこの本が初出というわけでもなく、数十年も前からあるらしい)

舞台「 TERROR テロ 」で扱われる内容も「少数を犠牲にして多数を救う行為が罪となるか」をテーマとして、基本的にはトロッコ問題と同様の構造をとる。しかし、この舞台の観劇体験は、テーマに対する受け手の取り組み方において、本の上で議論のために単純化されたトロッコ問題を読むのとは異なる点がある。

問題に対する最終的な結論を、受け手自身が決断・表明する

この舞台作品は、裁判劇の形をとる。観客は傍観者であることを許されず「参審員」として裁判を聴き、最終的に「有罪」「無罪」のいずれかに投票する必要がある。
(「参審員」は客席に予め置かれたフライヤーと共に、判決の投票用紙として1枚の赤い紙が入っている)

どんなに判断の難しい問題が展開されようと、書物で読んでいる限りでは「ふーん、難しいなぁ」ぐらいのテンションでよい。熟考して自分なりの結論を決めることを、誰も要求してこないからだ。ページをめくれば別の問題について書かれていて、頭を切り替えることが出来る。結局、数百ページ読破しても、自分の立場を何ら決定・表明しないまま、思考を終えることが出来てしまう。

ところが、舞台「 TERROR テロ 」はこれを許さず、受け手に対して立場の表明を要求する。観客は外から眺めている娯楽の消費者ではなく、裁判長・弁護士・検察官が「参審員のみなさん、」と語りかける相手として裁判の場に居るのであり、舞台上に立つ当事者も同然なのだ。

勉強でも仕事でもそうだが、人間はインプットの後に説明や議論、部下への教育といったアウトプットの機会があると、取り入れた情報により真剣に向き合い、自分の理解度や心の反応を掴もうと自問自答するものだ。その効果をもたらす意味で、観客による投票によって判決を決める仕掛けは良いアイディアだと思う。

単純化された仮定の問題ではなく、複雑な事情を抱えた現実の問題として捉える

トロッコ問題に代表されるような、限りなく単純化した仮定の上で物事を考えるやり方を思考実験という。「シンプルに考えよう。たとえばこうだ――」に続く形で問いが与えられ、考えていく。

けれども、舞台「 TERROR テロ 」では、ある軍人が事実として「少数を犠牲にして多数を救った」後から作品が始まるのであって、作品の枠内では既にたとえ話ではない。1人の軍人が「飛行機の撃墜命令が出ていない」にもかかわらず、テロの脅威から7万人を守るために、独断で164人を殺した。それが現実に起こった事件として裁きの対象になる。

そして現実問題であるがゆえに前提条件がシンプルにならない。憲法・法整備の背景や国家における軍事組織の責任範囲・意志決定上の制約、事件当日に被告が知り得なかった情報など、検察・弁護士サイド双方から様々な情報・証言が提供されていく。先述のトロッコを使ったたとえ話も議論の中に出てくるし、「飛行機に乗った時点でハイジャックに巻き込まれるリスクを承知したも同然だ」といった極端な見解まで出てくる。

飛行機の旅客より多くの人を救うためにこれを撃墜する判断の正誤の他に、その責任を実行者たる軍人1人に押し付けていいのか、という観点もある。

トロッコ問題が教科書の冒頭にある基礎問題だとしたら、この舞台で繰り広げられるのはより現実に即した応用問題といえる。同じことを論じてはいるのだが、絡む要素が増えることによって、よりリアリティを増し、判断が難しくなるのである。

投票結果のメモ

この作品は、参審員(観客)の投票結果により、有罪・無罪でエンディングが分かれる。私が観劇した公演で下された判決は「無罪」だった。

有罪・無罪の得票数が僅差であったため会場がザワついたが、そうなるに足る弁護側・検察側の絶妙なパワーバランスを実現してみせた俳優陣・制作陣には心から拍手を贈りたい。
(票数の操作があったかも、なんて野暮なことは言わない約束だ)

なお私の投票は「無罪」。ここから先は観劇した人にしか分からない情報が多分に含まれるけれども、備忘録がてら記録しておきたい。

まず法的な側面に限っていえば、以下の点から、どう転んだって有罪にしかなり得ないと思う。

  1. 飛行機の撃墜命令が出ていないこと。
  2. 1に関連して、ハイジャックされた飛行機の撃墜が違憲として、これを許す法律の条文が無効化されていること。
  3. 1と2の条件下で飛行機を撃墜する行為は、罪もない164人を殺害したという点において有罪。(7万人を救うため、という名目が正当化されない)

その上で無罪に票を投じるということが、本来なら法律家と合同で評決するはずのドイツ参審制で許されるかは疑問だが、それでも無罪とするその心(心であって正当性ではない)は、以下の通りだ。

  1. 実行者の軍人1人に責任を負わせられる問題ではない(と思いたい)
    実行犯としての軍人が当時判断し得る範囲において、ハイジャックされた旅客機を放置すれば、スタジアムの7万人 + 飛行機乗客164人がまとめて死亡する可能性が極めて高い。にも関わらず何の策も講じなかった軍の振る舞いや、スタジアム内の避難指示を怠った組織の存在など、実行者個人に罪の所在があるとは言い難い。

    裁判にて提示された「飛行機を撃墜しなくてもスタジアムの数万人は助かった可能性」は後から判明したことなので、罪の所在や重さに影響しない。

  2. テロリストの勝利とさせたくない
    この事件で旅客機を撃墜した軍人を有罪とすると、テロリストが民間人を乗せた乗り物をハイジャックしたり民間人を盾にするといった行為は、何の妨害も受けない(受けるべきで無い)ことが判例から保証された武器となる。

    早い話が「後で困るから」という理由で判決を曲げることであり、司法の下では相当ボンクラな議論である。しかし弁護側の発言にもあったように「法で裁けるような話ではない」とも思うので、これを判決理由とする。

書けば書くほど根拠として弱い。法的根拠でなく、明らかに気持ちで評決してしまっている。だが、それを自覚して無罪に投じることは、少なくともこの舞台作品において誤りではない。

「 TERROR テロ 」という法廷劇は、法律家との協議という手続きを踏まずに、参審員による直接投票で判決が決まるという構造になっている。この構造のもとでは、法的根拠のみによって投じた票も、気分や同情に基づいて投じた票も、ひとしく正当な1票だ。だからこそ、私はこの構造を利用して「無罪」に投票することができたのだ。

法律に則って裁く原則の限界を感じる一方で、これを解決するものとしての民意の投入が如何に危険か、と考えるのも面白い。民意の下では、憲法や法律は参考資料でしかない。裁判は、ショーの観客と化した民衆を如何にたぶらかすかによって、勝敗が決まるのだ。

裁判員制度はその辺を上手くやった結果として「民意入った意味なくね?」と言われているのだったか。あんまりそっちに踏み込むと無知をさらけ出すだけなので、この辺にしておく。

以上。
ほな、また。

TERROR テロ 作品概要

2018年
作:フェルディナント・フォン・シーラッハ
演出:森新太郎
キャスト:
橋爪功
今井朋彦
松下洸平
前田亜季
堀部圭亮
原田大輔
神野三鈴

あらすじ

2013年7月26日、ドイツ上空で民間旅客機がハイジャックされた。犯人であるテロリストたちは、7万人が熱狂しているサッカースタジアムに飛行機を墜落させて多数の命を奪うと共に、世界的なニュースになることをもくろんでいた。
しかし、緊急発進したラース・コッホ空軍少佐は、独断でこの旅客機を撃墜する。
乗客164名の命を奪って、7万人の観客の命を守った彼は英雄なのか、犯罪者なのか。裁判は民間人が評決に参加する参審裁判に委ねられる。検察官による論告、弁護士による最終弁論を経て、判決は一般の参審員が決めることとなるが、果たして少佐に下された審判は―。
(エンタステージ「橋爪功と神野三鈴が法廷対決!観客参加型の舞台『TERROR -テロ-』日本初演」より引用)

弁護士(橋爪功)と検察官(神野三鈴)がそれぞれの正義を賭けて、法廷で丁々発止の論戦を繰り広げる。この裁判の行方を決するのは…
観客の皆様に被告が有罪か無罪か投票していただき、その投票結果で、判決が言い渡されます。この法廷劇の結末を決めるのはあなたの一票かもしれません。
(公式サイトより引用)

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