【舞台】『 華氏451度 』感想~「思考・知識・創作・研究の蓄積」が否定された社会。本を燃やせと言ったのは誰か?

舞台

華氏451度
fahrenheit451

感想

本の所持・接触が禁止された社会で、本が内包する知的情報の重要性に気づいてしまった主人公と、その重要性を知りつつも焚書を先導する上司のやりとりに迫力があった。両者、一理も二理もあって相づちが止まらない。

知的情報の排除が、国家の統制でなく民衆の中から発生したニーズだという考え方も面白い。

誰が知的情報の所持を禁じたか

書物を読むことが禁じられ、情報は全てテレビやラジオによる画像や音声などの感覚的なものばかりで溢れている近未来。

劇中における本とは、書物としての本そのものを指すのではなく「思考・知識・創作・研究の蓄積」といった知的な情報の象徴だ。これに対し、テレビの映像やラジオ放送は、そういった知的要素を伴わない物として扱われる。国家が個人による本の所有・接触を許さないというのは、民衆に対して知的情報への接触を禁じるのと同義といえる。

作中で執行される知的情報の排除について「国家が実行をするにしても、これは国家により先導されたものではない」とする設定は面白かった。焚書の執行は、国家が特定の宗教や思想を迫害したり政治体制を強固にしたりといった目的で行われたのではない。知的情報を排除するムーブメントは国家の要求ではなく、思考の伴わないvividで楽ちんな文化に溺れた民衆の需要から広まったと語られている。

技術と産業の発展によって社会の進むスピードは加速し、コンテンツの数はより膨大に、中身はより単純になっていく。人間の持つ時間と処理能力には限りがあるので、人々は複雑な物・難しい物を受け止めきれない。何も考えないで受動的にコンテンツを消費していれば良い生活のなかで、知的な情報はノイズである。また、それを習得して難しい話を宣う人間は、民衆にとって恐怖の対象となっていく。

本のせいだ。本さえ無ければ、そういったノイズや恐怖が生まれることもない。本を排除しろ。燃やしてしまえ。

このような焚書が始まった経緯を、まさにいま本を焼いて回っている主人公の上司が説明してくれるのだから面白い。この上司、やたらと本(および、本が辿った歴史)に対して造詣が深い。主人公との激論を本からの引用に乗せて投げ交わした合戦でも、完全に主人公より一枚上手だった。本人も語っていたと思うが、彼にも主人公同様に本の重要性と魅力にあてられた時期があったのだ。そんな彼がどういった経緯と思いで本を焼く職業を続けたのかは語られなかったが、たいへん気になるところだ。
(この上司を演じたのが吹越満さん。勝てる気が微塵もしない、素晴らしい迫力だった)

記憶による知的情報の継承

本に感化されて追われる身となった主人公が、最後に出会った老人たち。「本という形で残すのがダメなら、全部覚えちゃえばいいじゃない」
彼らが下した結論はこれだった。

1人ひとりが本の中身を記憶し、後世に残す。大変な所業なのは確かだが、数十もの演目を覚えては演じきる落語家の存在や、物的証拠を残さずに信仰を守り続けた隠れキリシタンの例もある。その気になればやれる試みに、主人公も加わることとなる。

さほどダイナミックではないが、劇中ずっと壁に囲まれて真っ暗だった舞台装置が最後に開放的かつ明るくなった演出も相まって、未来への希望が感じられる良いラストだった。

滅びの炎は、知性があれば回避できたか。

ところで先日、本作の原著がNHK「100分 de 名著」にて取り上げられたのをたまたま目にした。

戸田山さんの作品ラストの読み解きも、想像すらしなかった読み解きでした。退廃した社会を戦争によって一瞬で焼き滅ぼすという顛末を「気に入らない」という戸田山さん。悪を絶滅して、残されたエリートだけで社会を再建するというヴィジョンは、ある意味で、火炎放射器で本を焼き払うファイヤマンたちの所業と全く同じではないかと、この作品のラストの展開を批判的に解説してくれました。
その上で、焼き滅ぼすのではなく、退廃してしまった都市にとどまりつつ、いかにして啓蒙をしていくことができるのかということを我々は考えるべきではないかと語ってくれました。田舎と都市、大衆とエリートという二項対立ではなく、それらが入り混じる現実の中で、私たちが何をなすべきかを戸田山さんは鋭く問うてくれたと、私は思います。ブラッドベリから「問い」を受け継ぐこと。これこそが名著を読む大切な姿勢だと思い知りました。
(NHK「100分 de 名著 プロデューサーAのおもわく。6月の名著:華氏451度」より引用)

確かに本作の最終盤では、本を記憶で残し伝える老人たちと主人公から遠く離れた街の方で突如として空爆が起こり、何の脈絡も無く戦争が起こる描写がある。

街を吹き飛ばすような戦争が、何の前触れも無しに始まるわけはない。現実に自国を巻き込む戦火の種が燻っているにもかかわらず「あっちの候補者の方が男前じゃない?」なんて態度で投票行動をしていた民衆の姿は、知性の欠如の象徴と言えるだろう。それでは、国民が知性を身につけていれば、その戦争は回避することができたのだろうか。ここは、素直にそうだとは言えない難しさがあると私は思う。

「知性」の扱いは難しい。知性を身につけることには、副作用がある。それは「知性を身につけて、まともな情報に触れて判断力を養っていれば、自分と同じ結論に至るはずだ」という感覚だ。知性に対する信仰と言ってもいいかもしれない。先に引用した「いかにして啓蒙をしていくことができるのか」を実践する時に、こいつが随分悪さをする。

知性ある者が達するべき結論が教義のような振る舞いをし、ここに至らない者は「知性が足りない」として啓蒙の対象になる。現実に私たちは、2020~2021年現在見舞われているCOVID-19蔓延に伴うコロナ禍で、それを目にしている。正しくコロナの怖さを知れば自粛をするはずだし、正しく情報に触れればワクチンを接種するはずだと。だから、自粛をしない若者には「うまく伝わっていない」「自覚を持って」みたいな論調になるし、ワクチン接種に慎重な態度をとれば「反ワクチン派」などとして異教徒扱いの憂き目に遭う。

けれども、若い世代の新型コロナリスクの低さや、経済圧迫による自殺者数の増加、ワクチンの長期経過観察データの不足や副反応の報告体制不備・胎盤移行性データの不足といった知識も間違いなく知性の結実であるはずだ。にもかかわらず、そういった意見の表明は文字通り炎上してしまうのが現代だ。ここで直視すべきは、知性が無いと自分の足場が崩れることに気づきもしないが、知性があっても「知性の無い奴(= 知性ある俺たちに従わない奴)なんか焼き殺してしまえ!」に容易に転化してしまう現実だ。

知性だけではダメだ。多用な知性とそれがもたらす多様な結論があると理解すること。社会の在り方はシンプルでないと知ること。暴走する知性をコントロールする理性が無ければ、結局は異なる方向を向いた知性同士がぶつかり合って、あるいは特定の知性が人々を扇動して、争いに繋がっていくだろうと思う。知性は、取り扱い注意の代物だ。


(本にしろ映像にしろ)フォーマットが何であれ、知的で良質な物も、そうでないものもある。「アニメやゲームばかり勤しんでないで本を読め」とだけ怒鳴って済むほど、問題は単純ではない。コンテンツの濁流と過酷な労働に溺れる現代人には、ゆっくり文章を読んでいる暇など無いのも確かだ。そういった状況下で、私たちは知的情報に対してどう向き合うべきだろうか。
……という話をゴリゴリと書いていたら話の脱線度合いが凄まじかったので、また気が向いたら別の記事として書くことにする。

以上。
ほな、また。

華氏451度 作品概要

2018年(原作:1953年)
作:レイ・ブラッドベリ
上演台本:長塚圭史
演出:白井晃
キャスト:
 吉沢悠
 美波 
 堀部圭亮
 粟野史浩
 土井ケイト
 草村礼子
 吹越満

あらすじ

徹底した思想管理体制のもと、書物を読むことが禁じられ、情報は全てテレビやラジオによる画像や音声などの感覚的なものばかりで溢れている近未来。そこでは本の所持が禁止されており、発見された場合はただちに「ファイアマン」と呼ばれる機関が出動して焼却し、所有者は逮捕されることになっていた。
そのファイアマンの一人であるモンターグは、当初は模範的な隊員だったが、ある日クラリスという女性と知り合い、彼女との交友を通じて、それまでの自分の所業に疑問を感じ始める。モンターグは仕事の現場から隠れて持ち出した数々の本を読み始め、社会への疑問が高まっていく。そして、彼は追われる身となっていく…。
KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『華氏451度』

コメント

  1. […] として滅びに向かってゆくという描写はレイ・ブラッドペリ著「華氏451度」の舞台作品でもみられたものだ。 こちらも着眼点が良くて面白かったので、また感想を書く。→書きました。 […]

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