【舞台】『 民衆の敵 』感想~衆愚政治のもとでは、内部告発はスカッと〇〇にならない

舞台

民衆の敵

enemy-of-the-people

感想

みんなが街の観光資源に対する不都合な真実を無視して楽しんでいるところへ、「それ安全性ヤバいからやめた方がええで」と水を差したせいでボコボコにされる男の話。

主人公も主人公で、まだ民衆と歩み寄りができる段階からガチギレモードに入って事態を悪化させてしまうのがもどかしいが、そういう「態度」ひとつで真実がたたき伏せられて大船が沈むこともあるのだという教訓が得られた。

スカッと○○パターンにはハマらない

物語のスタートは典型的な内部告発ものだが、「下町ロケット」や「半沢直樹」といった池井戸潤作品あたりのいわゆる「スカッと○○」的な物に慣れていると、面食らうことになる(なった)

主人公は、街の観光資源として期待される温泉に対して、安全性に問題があると指摘する。ところがその告発は、温泉のおかげで潤っている町を潰すものだと見做されて、同じ街に住む人々から「民衆の敵」の烙印を押されてしまう。

早い話が「みんなで盛り上がってるのに水を差すなよ! それとも何か? この温泉プロジェクトがコケて街が貧しいままになっても責任とれるんかワレ!?」というわけだ。大企業や政府といった分かりやすい「巨悪」ではなく、良心を持ったままのつもりでいる民意が、1人の人間を破滅に追い込んでいく様がグロテスクだ。

これに対し主人公は「お前ら愚かな民衆どもは云々!!」と怒鳴りつける。主人公の対応は、側から見れば正しさで勝負するというよりもただの気が触れた逆ギレでしかない。当然、状況はますます悪化していく。

衆愚政治は避けられないのか

素直に考えて、賢い人間は、賢くない人間よりも少数である。社会における多数派は賢くない側の人間なのだから、多数決で物事を決めるやり方は社会を誤った方向へ導くことになる。

こういう視点は筋が通っているようにも見えるし、「一部の賢い人が全部回してるはずなのにあの体たらくなの」とか、じゃあ「賢さ」って何で測るんだよ、みたいな話にもなるし、難しい問題だ。

この手のトピックを表す言葉として「衆愚政治」というのがある。これについて深く論じるだけの知識を私は持たないが、どう考えても財源不足なのに増税を打ち出した途端支持率が下がるとか、代替案も無いまま原子力発電だけはイヤと駄々をこねるとか、現代においても通じる話は山ほど転がっている。

この作品で描かれるのも衆愚政治の構図であり、向かう先は主人公の持つ「正しさ」に対する、民衆の持つ「愚かさ」の一時的な勝利である。もちろん、主人公が指摘した問題は何も解決していないので、いずれ民衆はそのツケを払わされることになるのだろう。

大勢が敵に回るなかで、それでも芯を貫いて責め苦を受けるのはキリストに近い部分もあるのかもしれない。けれどもキリストは自らの敵を悪く言わずに許したのだったか。徹底抗戦の構えを見せるトマス医師は、キリストとは根本的に違うと言って良さそうだ。

この作品は何を教えてくれたのか

作品は、どう見ても主人公の負け試合で終了。飛んでくる石を受けながら、それでも目をキラキラさせた主人公および家族の面々が幕の向こうへ消えるなか、「一体これは私たちに何を見せてくれた作品なのだろう」と考えてみたい。

「強い人間というのは、何があっても1人で立っている人間だ」

本項の見出しは、終幕直前の主人公の言葉である。「ブレない人」という表現もできるだろう。この「強い」は「正しい」とイコールでない点には注意したい。今回はたまたま主人公の指摘が正しかったけれど、当人が正しいことにこだわっているか間違ったことに執着しているのかは、傍から見れば見分けがつかない。自分自身でも、いずれであるか気がつかないだろう。

重要なことは、多数の中に立っているか多数と反対側に立っているかではないのだ。自分の周囲に人が居ても居なくても、己の判断が正しいかと常に自問自答して、客観的な視点とバランス感覚を養い続けていくべきなのだろう。

終幕の直後に、1人立ち2人立っては拍手をし、それが徐々に全体に広まって大多数のスタンディングオベーションとなる観客席を見ていると、何だか面白かった。果たしてこのうち何人が、自分1人だったら座ったままで拍手を続けていただろうか。そういう「釣られて動く」みたいな、自分の判断に自信を持たず揺らぎがある姿勢が危ないのだぞ、と今しがたの観劇で学んだはずなのだけれど。

そうは言っても、立ち回りは大事だろう

みんなが赤信号を渡ってもその場に留まるとか、職場の人間が悪口を言っているところに賛同しないとか、個人の取り組みとしてやる分には、正しさを貫くことも易しめではある。しかし多勢を覆したり仕組みを変えたりするとなると、正しさだけではなく主張の仕方や立ち回りというのも重要だ。本作の主人公はここが欠けていたために、多数を愚弄する発言をして「民衆の敵」との烙印を押されてしまった。

現代の話で詳しく書くとどうやってもカドが立ちまくってしまうので難しいのだが、言ってることは正しいのに立ち回りが悪いために反感を買ってしまう例は、現代にもみられる。マイノリティAとかBとかCとか…。「もうちょっと上手くやればいいのに」と思っていたら、普段はマジョリティに存在さえ認識させずに自らのアイデンティティと立場を守り続けているマイノリティDの存在に最近気づいた。さすが歴史が長いだけあって、動き方を心得ていらっしゃる。(ボカし過ぎて何が何だか分からない)

一部のマイノリティ諸氏におかれましては、敵とみるやいなや未熟だの時代遅れだのと人間否定を仕掛けるアクションを控えつつ、うまく理論立てて味方を増やしながら戦ってほしいと切に願う。本作にも「とにかく穏便に!」と繰り返して腰抜けだと言われていた人物が居たけれども、言ってることが正しくても自分に刃向かう大衆をボコボコに怒鳴りつける態度では、せっかくの正しさが通らない。それを本作で見ていれば、穏便に事を進める努力も、主張の正しさと同様に重視されるべきだろう。

教育の重要性

終盤、主人公は突然「教室を開こう」と言い出す。あまりに唐突過ぎて、単なる思い付きにしか見えないのだが、よくよく考えると話の筋にあった結論だ。民衆のなかで賢くない人が多数を占める事実はどうやったって変わらないが、全体の賢さを底上げすることは出来る。相対的に見ればエリートには劣るかもしれないが、何が正しくて、そのためにどうすべきかを考えられる程度に、民衆の賢さを上げていこうというのだろう。

現代日本でも、公立小学校・中学校までは知的レベルの異なる層がごった煮状態となっているが、高校以降の段階で複数の階層に振り分けられていく。賢さ = 偏差値かという話をし出すとアレだが、少なくとも一定の層以下の学生に対しては、賢さを身につけること自体が諦められているフシがある。これでは全体の賢さなんて上がるはずもないので、「賢さとは何か」は別に論じるとしても、とりあえず一定の年数を学校で過ごせば水準が低くても無条件に卒業して社会に出られてしまう仕組みは、考え直す必要があるのかもしれない。

その他のこと

問題の主要な関係者・責任の所在を、主人公の親族内にまとめてしまっているのも面白い。単に大企業や公的権力との闘いというだけでなく、義理の家族も含めた複雑なパワーバランスの中で主人公がどう振る舞うかというポイントは、物語をより面白くさせていると感じた。

あと谷原章介さん、声良すぎた。カコイイ。

私程度の人間がこんなに色々と書いてしまえるので「みんなで考えよう。正しさのこと。政治のこと。」という材料としては百点満点の作品だったかと思う。「大学生からの現代社会」みたいなイメージで、舞台が見られずとも原作に触れてみても良い作品だ。

以上。
ほな、また。

民衆の敵 作品概要

2018年(原作:1882年)
作:ヘンリック・イプセン
演出:ジョナサン・マンビィ
キャスト:
堤真一
安蘭けい
谷原章介
段田安則

あらすじ

温泉の発見に盛り上がるノルウェー南部の海岸町。
その発見の功労者となった医師トマス・ストックマン(堤真一)は、その水質が工場の廃液によって汚染されている事実を突き止める。汚染の原因である廃液は妻カトリーネ(安蘭けい)の養父モルテン・ヒール(外山誠二)が経営する製革工場からくるものだった。トマスは、廃液が温泉に混ざらないように水道管ルートを引き直すよう、実兄かつ市長であるペテル・ストックマン(段田安則)に提案するが、ペテルは工事にかかる莫大な費用を理由に、汚染を隠ぺいするようトマスに持ち掛ける。一刻も早く世間に事実を知らせるべく邁進していた、新聞の編集者ホヴスタ(谷原章介)と若き記者ビリング(赤楚衛二)、市長を快く思っておらず家主組合を率いる印刷屋アスラクセン(大鷹明良)は、当初トマスを支持していたが、補修費用が市民の税金から賄われると知り、手のひらを返す。兄弟の意見は完全に決裂し、徐々にトマスの孤立は深まっていく。カトリーネは夫を支えつつも周囲との関係を取り持とうと努め、長女ペトラ(大西礼芳)は父の意志を擁護する。そしてトマス家に出入りするホルステル船長(木場勝己)もトマスを親身に援助するのだが……。
トマスは市民に真実を伝えるべく民衆集会を開く。しかし、そこで彼は「民衆の敵」であると烙印を押される……。
Bunkamura30周年記念 シアターコクーン・オンレパートリー2018 DISCOVER WORLD THEATRE vol.4 民衆の敵

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