【映画】『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』感想~強引ながらも見事な着地と”just Rey”(ただのレイ)の敗北

映画

スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け

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スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 作品概要

2019年 アメリカ
原題:Star Wars: The Rise Of Skywalker
監督:J・J・エイブラムス
キャスト:
キャリー・フィッシャー
マーク・ハミル
アダム・ドライバー
デイジー・リドリー
ジョン・ボイエガ
字幕翻訳:林 完治

総評

評価:

この映画、みる角度によって評価がガラリと変わる。

EP7~8でとっ散らかったシリーズを、何とか穏便に終着させた点は○。
過去シリーズとの一貫性を意識していたかといえば×。

主人公レイ個人が思い悩んできたアイデンティティ欠如に対する救いの面では○。
「誰でも無い」レイおよび人民の手により、世代を超えて続けられてきたジェダイとダークサイドの不毛な戦いに終止符を打つ面では×。

その他、観客が持つ過去シリーズへの愛着(執着)や、EP8を中心として示された道筋へ感じるシンパシーの度合いによって、本作は如何様にも評価が変わるだろう。
物語以外のところで制作事情に左右された事情もあり、「もしも○○○が○○○していたら」を考える余地が多分にある意味でも、グッドエンドではあるがトゥルー(ベスト)エンドでない感は拭えない。

ネタバレ無しではどうしても「色々あったけど、よく頑張って持ち直したよね」ぐらいしか言えなかったので、是非とも1度ご鑑賞いただいてから、ネタバレ有りのセクションもご一読ください。

感想(ネタバレ無し)

強引ながらも物語を無難に着地。まずは前向きに捉えたい

監督を務めたJ・J・エイブラムスは、遙か遠くの銀河ではない現実世界で色々あった本シリーズを、力業ながらソフトランディングさせてみせた。
この記事で後述のネタバレありセクションでは「何でこうならなかったの!?」と、有りもしないルート分岐に思いをぶち撒けることにはなるが、此処ではまず穏便な鎮火を肯定的に捉えたい。

EP7から続くレイちゃんウォーズの完結編となる本作は、作品の外で渦巻くファンの思いと制作事情に振り回された印象が強い。
そもそもEP7~9の三部作は、スターウォーズがジョージ・ルーカスの手を離れた1ことと、もとより9エピソードあるとされていた本シリーズに区切りをつける役目を負っていることから、ただでさえ注目度と評価のハードルが高かった。
その上で本作の公開前には、先行するEP7~8への評価を含めて、色々と不安要素があったのは確かだ。

  • 旧シリーズから続投する主人公格(ルーク2ハン・ソロ)の扱いに対する反発
    (ハン・ソロについては「死なせ方が雑」とか色々あった気がするが、ソースを見つけられなかったので消しておく)
  • レイア姫を演じてきたキャリー・フィッシャー氏の逝去3
  • 監督の降板や脚本の破棄、EP7で監督を務めたJ・J・エイブラムスの緊急復帰4

他にも、 ポリティカル・コレクトネス5体現に寄せた作風・配役への反発(白人女性・黒人男性・ヒスパニックからなる主人降格の構成や、人外種族の露出減少など)もあったように思う。脇役ポジションのキャラクターには、EP8でフォーカスの当たったアジア系女性への誹謗中傷6もあった。
本作の制作終了後であったと思うが、ファンを不安にさせた & 反発を呼んだ意味では、プロデューサーによる「シリーズの大筋やゴールを決めていない」旨のコメント7や、役者による台本流出事件8もあった。

どれがどう効いたのかはわからないが、結果的にはリスクを極力回避し、八方美人を極めた先の穏便な鎮火を目指す作品が仕上がった。
ベタな王道展開と豊富なファンサービスで熱量を添加しまくりながら、強引ながらも無難にまとめられた本作は「よくぞここまで」と前向きに捉えるには十分な出来だと思う。

もちろん、考えれば考えるほどに「他にもっと遣り様はあったのではないか?」と思うポイントは出てくるし、「ジョージ・ルーカスが制作を続けていたら」「キャリー・フィッシャー氏が生きていたら」「最初の脚本が破棄されずにいたら」など、「もしも」を考え出すとキリが無いのだが。

ようやく若者へ渡ってきたバトン

EP7~8では、レイやフィン、ポーといった若い世代が主人降格として登場した一方、脇を固めるEP4~6の主人公格(ルーク、レイア、ハン・ソロ)の介入度合いと注目度も、凄まじいものだった。

過去作から続投する登場人物が味方陣営に大量に居て、積極的に物語に介入する。そういう要素は、EP1~6時点では目立たなかった特徴だ。
EP1~3は制作順における前作のEP4~6よりも過去に位置づけられたので、かつての主人公が口出しをしてくることは無かった。EP4~6では、敵方でないEP1~3の生き残りはサポート役に徹し、目立ちすぎる前に退場していく傾向があった。

翻ってEP7~8はどうか。
程度問題と言われればそうなのだが、過去から続投する人物の振る舞いは、ファンサービスや若い世代へのサポートの域を超え、主人公の一端を担っているとさえ思える。
EP8「最後のジェダイ」なんて、ほとんどルークの物語といっても過言ではない。
このあたりの背景としては、単純に過去の主人公達が出しゃばりというより、①レイとカイロ・レン、②レイとフィン・ポー、③カイロ・レンと両親(レイア、ハン・ソロ)など、描くべき関係性が多過ぎたために、物語の軸として描かれる人間関係がなかなか定まらなかったのが大きい。
どれも無駄ではないのだが、如何せん3部作でやり切るには時間が足りなかったように思う。

本作では、過去の主人公格は原則として若者のサポートに回り、尺も画面も占拠し過ぎない配慮がある。ご老体が美味しい所を持って行くのを防ぎ切れているわけではないのだが、此処はファンサービスの一環、あるいはスターウォーズの元祖主人公達に対するリスペクトの所産として受け止めたい。

バトンタッチがあまりにも遅すぎる感はあるが、今作はそれを取り返すように、120分余にわたる尺のほとんどで、若者達へ焦点を当てられている。
かつてないほどのスピードと無駄の無さで展開されるリズム感は、若きポーが古きミレニアムファルコンを酷使して生み出した”Lightspeed Skipping”の表現を用いるにピッタリだ。
場末の酒場で人外種族が陽気なジャズを演奏する様子を延々と映すなど、本筋でないところで尺を食い潰していた過去作と比べれば大きな進歩だと思う。
あの無駄なシーンの描写がスターウォーズの世界を拡げてるんだ!と怒る人も出てきそうだが……)

ところで「俺たちの時だって、準備なんか出来てなかったよ」と○○○が○○○に優しく声をかけてくれたシーンは、不思議と肩の荷が下りた感じがして、個人的にもこみ上げるものがあった。
普段、先人が築き上げた歴史とその介入に戦いを挑む若者諸君には、是非とも観て欲しいワンシーンだ。


先に述べた通り、ここまでは「色々あったけど、よく頑張って持ち直したよね」ぐらいしか書けなかったので、以降ネタバレ有りのセクションにて、よもやま話にお付き合いください。

感想(ネタバレ有り)

“just Rey”(ただのレイ)の敗北

残念でならないのは、最終的にジェダイとダークサイドの争いに終止符を打ったとは言い切れず、またフォース覚醒への扉も従来の通り、狭い範囲の人間にしか開かれないままで物語が終わったことだ。

思い返せば、スターウォーズEP4~6はルークとハン・ソロとレイア姫の物語だったのだから、その流れをモロに汲むベン・ソロこそ、EP7~9の主人公にふさわしい。
にもかかわらず、その流れから逸脱した存在であるレイを、あえて悪役としてのベン・ソロ(もとい、カイロ・レン)に対峙させる形で主人公に据えた。
であるならば、EP1~6を踏まえた続3部作の最終作で到達する所は、ある家族を中心に渦巻く愛憎やジェダイ・ダークサイドといった枠を超えて、銀河をより大きなスケールで揺るぎない革新へと導いていくものになって然るべきだったのではないか。

件のレイは、ちょっと1人で突っ走り過ぎな傾向はあるが、才能に溢れるとともに柔軟な子である。
ライトセーバーを使いこなせるのに銃や棒のアクションを多分に使うし、初めて操るミレニアムファルコンで変態機動もこなしてみせる。
まとわりついてきた正体不明のドロイド(BB-8やDI-0)にも優しいし、自らの置かれた状況に悪態をつかず、目上の人へリスペクトを忘れない。(某アナキンの時と違って、誰も彼女を抑圧しなかった事情もあるが)
またフォースの使い方にしても、傷を治癒するとか、離れた場所に居る相手と剣戟を交えるなど、先人たちには思いつきもしなかった活用をしてみせた。
(特に傷の治癒などは一部から「これを許したら何でもアリだ」と反発があったようだ。しかし私からすればフォースをマインドコントロールに使った時点で、またフォースを「万物に宿る・包み込むエネルギー云々」と説明した時点で、フォースは紛うことなく何でもアリでもおかしくないエネルギーである)

私は、EP7「フォースの覚醒」およびEP8「最後のジェダイ」で彼女の柔軟性と優秀さを見るにつけ、こう期待したものだ。

この子ならば、ジェダイだとかダークサイドだといった、共に極端過ぎる志向を持ちながら『バランス』と称して何度も殲滅と復活を繰り返してきた古い概念を飛び越えていけるかもしれない。
また「何者でもないレイ」は、同様に何者でもない民の先陣を切り、これまで銀河の歴史を牛耳ってきた一部のファミリーから大衆の手に歴史の舵を取り戻してくれるかもしれない。
その先で、人の持つ光も闇も肯定し受け入れた人々の手により、偏った力や考え方に囚われない未来を開けるかもしれない。

劇中ではフィンやジャナがフォースを”Feeling”として落とし込んでいたり、EP8のラストでも少年が立ち上がる決意を固めていたりと、ジェダイやスカイウォーカーといった枠の外にいる人々の振る舞いから、人民そのものの革新へ向けて片鱗は見えていた。
またスカイウォーカー家なくしても歴史を背負い変えていけることは、先に「ローグ・ワン」で示されて準備は出来ていたはずだ。

スカイウォーカー一族やレイが居なくたって、何度パルパティーンやスノークのような存在が現れても、誰かヒーローを待つでもなく人々が立ち上がり自らの力で解決するという表明。そして、それが可能な次のステージへ人民が進んだという新たな、そして大きな希望。

しかし結果はそうならず、本シリーズはレイにジェダイのすべてを背負わせて焚き付け、最終的に「スカイウォーカー」を名乗らせてしまった。
物語はパルパティーンの身体を粉々にしただけで満足して、「ジェダイが暗黒面のカシラを倒した(けどまたバランスをとって復活してくるかもね!)」に落ち着いた。
これでは、EP6でスッキリ終わっている物語を濁してまでEP7~9をやる意味は無かったとされても文句は言えないだろう。
EP8で準備が整ったというのに最後の最後で守りに入った本シリーズが、そこへ到達出来なかったのは非常に惜しい所だ。

なお、当初本作の脚本家として携わるも降板、脚本自体も破棄されてしまったコリン・トレボロウによる草案とされるPDFがリークされている。
ここには、以下のレイの台詞に象徴されるように、ジェダイとダークサイドが互いにいびつな形で固執・対立を続ける状況を、レイが超えていける要素が含まれていた。

REY “Our Masters were wrong. I will not deny my anger. And I will not reject my love.”
REY “I am the darkness. And I am the light.”
KYLO”You are nothing! You are no one!”
REY “No one is no one.”

レイ「私たちのマスターは間違っていた。私は自身の怒りを否定しないし、自身の愛も拒否しない」
レイ「私は闇。そして光」
カイロ「お前は何でも無い! 何者でも無いんだぞ!」
レイ「何者でもない人なんて、居ないのよ」

リンク先より入手可能なPDF – Derek Connolly & Colin Trevorrow “STAR WARS EPISODE IX -DUEL OF THE FATES-“より引用・本記事筆者訳)

全体的に壮絶過ぎるきらいはあるのだが、個人的には本シリーズで重要だと感じている到達点に達している部分も多く、実際に公開されたバージョンよりも好みだ。
再三述べている通り穏便な着地への逃避を図った防御的制作姿勢によって、上記草案の内容が削ぎ落とされたのかと思うと残念だが、どうやっても推測にしかならないし、同脚本に基づく作品が公開されることは無いだろう。
これが映画でなくTVゲームであれば、追加コンテンツ配信等で別エンディングとして実装される可能性もあるのだが。

戦いの果てにレイが得たもの

さて、「俺の観たかったのと違う」からといって作品をこき下ろして終わるのはフェアじゃないし美しくないので、ここらで頭を冷やしたい。
(「レイにジェダイの全部を背負わせて云々」と怒りながら、人民の革新に向けた旗振り役を彼女に期待するテキストを展開したのも後ろめたいので)
またスターウォーズ自体が、銀河レベルの大風呂敷を広げながらも根本では、家族の絆レベルの小規模で大事なポイントに軸を通してきたのも確かだ。

ここでは少し大人な対応として、EP7~9のプロットをありのまま受け入れたい。
その上で、運命が大きく動くことになったレイの視点から、彼女に救いはあったのか見てみたい。
結論から言うと、出会った多くの人々を亡くしながらも、結果的には抜け落ちていたアイデンティティを確立し、仲間も得た。彼女を思う人・必要とする人はたくさん残っていて、レイにとって本シリーズは、少なくともグッドエンドではあっただろう。

EP7までは「親に置いて行かれた」以外のルーツを持たないガラクタ漁りとして独りで生きてきたレイ。
彼女はお爺ちゃんがとんでもない輩だったことを知りショックを隠せないが、同時に両親が最後まで自分を守ってくれたことを確信する。当然、両親が生きていて再会出来ればベストだが、自分は捨てられたのではなく、むしろ最後まで想われていたのだと知れたことで、自らのルーツ欠如からなるアイデンティティの問題はほぼ解決といって良いだろう。
本作で描かれるレイの苦悩は、自らのフォースや怒りのエネルギーに呑み込まれそうになることへの抗いと、既に繋がりの判明したお爺ちゃんとの決別・彼の処分方法にかかるもので、自分が何処から来た何者なのかわからないことによる苦悩は克服している。
最終的に、レイはパルパティーン姓ではなくスカイウォーカー姓を名乗ることを選んだ訳だが、このあたりは過去を過去として受け入れつつも、自らを導いたマスターへの敬意と、これに根ざした生き方の表明であろう。両マスターもにっこり微笑んでいたことだし。
(祖父の罪ごとパルパティーン姓を背負う選択肢もあっただろうが、そうしなかったのはアメリカの価値観によるものだろうか。同国に戸籍は無く、日本と異なり「家」の考え方が薄いのかもしれない。結婚時には両性の名字をミックスして新たに名字を作る場合もある9そうだ。
と、ここまで書いて、だったらこの家系を意識しまくりのスターウォーズって作品は一体何だ!?と書きかけたが、諸外国の家族意識とスターウォーズのトリビアを総ざらいしないと語れそうにないのでやめておく)

レイと共に主人降格であるはずのフィンやポーとの協調姿勢を半ば諦める形で深掘りされた、カイロ・レンことベン・ソロとの関係にも触れておきたい。
レイにとってベンは、劇中常に心の底では繋がりを感じており「手を取りたかった」相手だ。
最終的に和解出来たこともあって、視聴者としても騒動後には2人で仲良く暮らして欲しい気持ちもあるが、ファーストオーダーを先導して数々の悪行を働いた手前、落し前をつける結末からは逃れられないだろう。

結果的にレイは両親・人生で最も通じ合った相手・師事したジェダイマスターを喪失しながらも、その全てとの絆が確かであることを胸に、独りぼっちから脱して居場所を得ることが出来た。
色々と背負わされて追い詰められたわりに残ったものは少ないような気もするが、過去と今を彩る要素が確かになった意味では、十分に価値ある終着点なのかもしれない。

ダークサイドの面々に纏わる細々したこと

家出少年:カイロ・レン

各所で言われているが、改心したカイロ・レンことベン・ソロがトンデモフォースでレイからライトセーバーを受け取った後の、親父さながらの肩をすくめる動作。これには私も涙腺が緩んだ1人である。
彼が仮面を被り赤いライトセーバーを手にした経緯から考えれば、本質的に彼は明らかに主人公サイドの家出少年でしかなく、悪役としての存在感には欠けていたのは確かだ。
(全体的に何だか頼りないし、EP7で物に当たるタイプのキレ方をしていた時は可愛くすら見えたものだ)

出自や性格がどうであろうとも、スターウォーズの世界で闇落ちして、一時はファーストオーダーを先導していたとなれば、落し前をつけざるを得ないのは先に述べた通りで、何とも不憫ではある。
だからといって、彼を更生させるために家族全滅に追い込む必要は無かっただろうとは思うが……

アナキンは何をしていたのか?

カイロ・レンは、事ある毎に焼け焦げたダース・ベイダーのメットに手を当てて崇拝していた。
だが肝心のベイダーことアナキン・スカイウォーカーは、一度も彼に語りかけることは無かった。
確かEP6のラストではアナキンも霊体としてオビ=ワン・ケノービと並んで立っていたはずだが、大人の事情で出てこないのかな、と私は思っていたのだが……

本作のエンドロールを見ると、終盤で力尽きたレイに語りかける先代ジェダイーズの先頭に、しっかり俳優据え置きでアナキン・スカイウォーカーがクレジットされている!

お前さん、出てくるのが遅すぎだろう!!

ベン・ソロと直接の関わりを持たないヨーダやクワイ=ガン・ジンやオビ=ワン・ケノービが語りかけないのはわかるが、アナキン氏はベン・ソロからすれば直系のお爺ちゃんにあたるわけで、道迷う孫に対して「お前、それは違うぞ」って言ってやれば、ここまで話はこじれなかっただろう。
何十年もダークサイドにどっぷり浸かってたアナキン氏に「いやぁ、ダークサイドの深淵はジェダイには云々」などと言い訳が許されるはずもない。

まぁ思い返せばダース・ベイダーという人はEP4~6で何度も観られるように、余裕ぶっこいて歩いて行った結果として大事なところで敵を取り逃しまくるプロだったわけで。
その辺の「大事な時にちゃんとしない奴」って性質は、フォースと一体になっても変わらないのかもしれない。

ラスボスについて

上映開始直後、お馴染みの爆音とともに流れる黄色いテキストの奔流。
これを劇場で観るのも最後なのだろうと思いつつ、1行目に書かれた「あぁ死者の声が銀河に響き渡る! パルパティーン!!!(意訳)」のメッセージ。

この復活劇に対しては、EP6でダースベイダーことアナキンが、我が身を犠牲にしてパルパティーンを倒したのが台無しとの見方もあるようだ。
しかし、あの場面の一番の関心事、また成果であったのは、ベイダーが心の底に残していた善意や父としての愛情を取り戻したことにある。
結果として、家族愛はダークサイドに勝るとの結論はパルパティーン復活に際しても崩れていない。

さらに言えば、死者による生者への口出しが横行するジェダイの世界をみると、あのパワフルなパルパティーン帝が、一度肉体が滅んだ程度で大人しくしているわけが無かろうことは容易に想像がつく。
だからこそ、何度でも復活し得る皇帝をいつでも叩き潰せるだけの力を人民が得たのだ、という確証が欲しいという話は、先に述べた通りだ。

あとパルパティーン氏、次に復活することがあったら、いい加減自分が放った電撃を弾き返された時の対策をしておくべきだ。
EP3でメイス・ウィンドウに同じことをされて顔があんな風になったのに、まるで学習していない。


後片付け
9エピソードに渡るスカイウォーカー・サーガを締めくくった(ことになっている)本作だが、ディズニー社はシリーズをここで終わらせる気など毛頭無く、あの手この手でシリーズの存続と拡大を既に進めているようだ。
私はジョージ・ルーカスが作り上げたスター・ウォーズに沿うことに拘りがある方ではないので、現状はもう少し様子を見ながら、面白そうならシリーズに追随していくスタンスで居る。
良い脚本が出来たなら、レイちゃんのさらなる熾烈な戦いと人民の革新を描くエピソード10~12を作ってくれても構わないよ、ディズニー!!

以上。
ほな、また。

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